岡田内閣は、1934(昭和9)年7月に成立し、1936(昭和11)年2月の二・二六事件で崩壊するまで1年半続きました。
五・一五事件の先駆ともいうべき事件は三月事件と十月事件だったという話はしましたが、二・二六事件の先駆は「士官学校事件」と「相沢事件」でした。
この頃、陸軍を二分していた大きな派閥が「統制派」と「皇道派」でした。
「統制派」は参謀本部や陸軍省を根城にした軍のエリート層が中心で、重要人物としては、東条英機や永田鉄山(ながたてつざん)、それに辻政信が挙げられます。
この派閥は「高度国防国家建設」をスローガンにして、軍部主導の国家を合法的に構築して行こうと考えていました。
これに対して「皇道派」は、ひたすら「天皇」を仰ぎ、宗教的な国体観念の下に、天皇親政の国家を作り上げようというもので、現場の指揮官が多かったようです。
もちろん、知的レベルは、「統制派」の方が相当に上だったと言って差し支えないでしょう。
もっとも、どちらも、軍国主義国家建設を目指すという意味では同じ穴の狢(むじな)でした。
皇道派が二・二六事件を起こして自滅し、統制派が軍を掌握したことが戦争につながったという人もいますが、それはまったく歴史感覚を欠いた観察だと僕は思います。
皇道派が権力を握っていたら、もっと早くに戦争に突入していたに違いありません。
「天皇陛下万歳」に終始する皇道派を、昭和天皇は非常に嫌っていました。
皇道派の中心人物と目されるのが、荒木貞夫と真崎甚三郎(じんざぶろう)でした。
荒木は十月事件(1931)が成功していたら、担がれて首相になっていただろうと言われる人物です。
だんだん険悪な世相になって行く中で、1934(昭和9)年、士官学校教官だった、上記の辻政信が、皇道派の青年将校のクーデター計画を摘発しました。これが「士官学校事件」(別名十一月事件)です。
この事件そのものは、それほど緊迫した計画ではなかったのですが、統制派が皇道派を摘発したのですから、両派の対立がいよいよ深まることになりました。
辻政信という人は、参謀本部の若いエリート、陸軍士官学校は、補欠で入ってトップで卒業したという伝説上の秀才ですが、奇矯な人物で、日本を戦争に引っ張って行った若者の代表のような人でした。
戦後、参議院議員になりましたが、ある日突然、「ビルマに、日本兵の遺骨を収集に行く」と言って出国した切り、行方不明になりました。
何か思う所はあったのかも知れません。
まあ、僕はそのことを評価するわけではありませんが、そういう思い切りが人を引きつけるものを持っていたのでしょう。
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