前回は、桶狭間で滅ぼされた義元は実は武勇の人だった、というお話でしたが、その息子・氏真(うじざね)は本当に文弱な男だったようです。
桶狭間で父を失って家督を継いだ氏真は、その後の領国経営に失敗し、家臣の離反を招きます。
今川から独立しようとした家康と戦って破れ、完全に三河での勢力を失ってしまいます。
この様子を見て、触手を伸ばして来たのが、武田信玄です。
信玄は今川を滅ぼして、この地に自分の勢力を植え付けようとしました。
信玄の長男・義信(よしのぶ)の正室は氏真の妹でした。そこで、義信はむしろ今川と提携することを主張し、信玄と対立します。信玄は義信の家督を奪って幽閉し、やがて殺してしまいます。
そして、新たに信玄の後継者になったのが、武田を滅ぼすことになる勝頼(義信の異母弟)だったのです。
これに対抗して、氏真は北条や越後の上杉と提携して、武田を南北から挟撃する体勢を取ります。
氏真は甲斐(長野/武田の領国)に塩を送ることを禁じます。
謙信が信玄に塩を送ったというのはこのときの話ですが、「塩止め」に謙信自信もかかわっていたのですから、「敵に塩を送る」の格言の元になったこのお話はどうも嘘らしいと言われています。
だいたい、塩止めをされても、塩商人は、こっそりと入って来たので、武田方が塩がなくて困ったという事実はなかったそうです。
一方、南北から包囲された信玄は、織田・徳川と連合します。数年後には、信玄は織田・徳川と戦うことになるのですから、めまぐるしい変転です。
1568年、信玄は駿河に侵入し、家康もこれに加担して、氏真は、遠江の掛川城に籠城します。
やがて、信玄と家康の間の信頼関係が破れ、家康の斡旋で、氏真は命を助けられて籠城は終わりますが、この時点で、駿河今川家は実質的に滅亡しました。
その後、氏真は北条氏に養われていましたが、やがて、家康の客人となりました。
織田・徳川連合軍が武田勝頼を破った長篠の戦いに、氏真が参加していたと聞くと、へえーッと思うでしょう。
その後、お家復興を諦めた氏真は文人になって、京都の公家などと交際し、蹴鞠と和歌で有名な存在になりました。
江戸時代になると、旗本に取り立てられ、江戸に住んで、大坂冬の陣の最中に77歳の高齢で死去しました。
武将の子に生まれながら、軟弱な人生を送った人として、馬鹿にされていますが、けっこう人間的な一生を送ったのですから、それはそれでいいんじゃないでしょうか。
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