1221年、後鳥羽院は倒幕を企てて挙兵し、あっけなく敗れてしまいました。これが、「承久の乱」(じょうきゅうのらん)です。
当時、上皇は後鳥羽(ごとば)と土御門(つちみかど)と順徳(じゅんとく)の3人。それぞれ、天皇としては、82代、83代、84代です。
天皇は85仲恭天皇。順徳の皇子ですが、まだ数え年4歳の幼児でした。
仲恭天皇は罪はないのに、罪人(順徳)の子だというので、廃され、しかも、半帝とか廃帝とは呼ばれて、以後歴代天皇の中に数えられませんでした。
この人が正式に天皇と認められたのは、なんと明治になってからのことでした。
後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡に流されました。
ところが、後鳥羽院は土御門院を嫌って、順徳院を愛していましたので、そもそも、無理矢理に、土御門を退位させて、順徳を即位させ、その後も、順徳の子を登極(天皇の位に昇ること)させたのでした。
そこで、承久の乱は後鳥羽と順徳が二人で計画したもので、土御門は何の相談にも預かりませんでした。
幕府も土御門の罪は問わないつもりだったのですが、なんという感動的なことでしょう。
土御門は自ら、「父と弟が流されるのに、自分だけのうのうと都にいるわけには行かない」と幕府に申し出て、自ら流刑に処せられるように願ったのです。
そこで幕府は、土御門を土佐に流しましたが、父や弟とは違って、その地ではかなり大切に扱いました。
やがて、土佐よりも都に近い阿波に移して、さらに待遇をやわらげました。
さて、京都を占領した幕府は、次の天皇を決めなければなりません。
こんなことがあっても、権力者は、天皇制を廃止してしまおうという考えには決してならないのでした。これが日本の神国たる所以であり、権威の出所である天皇がいなくなってしまったら、幕府も権威の基盤を求める所がなくなってしまうからです。
天照大神の直系の子孫である天皇は、何をもっても代替することができず、つねに権力者の上に神聖な存在として君臨していなければならなかったのです。
もちろん男系で皇統に属する人でなければ天皇にはなれません。
しかし、後鳥羽院の子孫では、幕府としては困ります。
選ばれたのが、後鳥羽院の異母兄の行助法親王(ぎょうじょほっしんのう)の子である茂仁(ゆたひと)親王。この人を立てて、86後堀河(ごほりかわ)天皇としました。10歳でした。
「法親王」というのは「出家した親王」のことです。
当時は、子供のうちに天皇になり、成人する頃には退位してしまうことが多かったのは
ご存じでしょう。
じゃあ、朝廷の最高責任者は誰だったかと言えば、「院」と呼ばれる元天皇がたくさんいたのですから、別に困ることはありません。
院(ふつうは「上皇」、出家すると「法皇」)の中で一番の実力者が朝廷を仕切り、これを「治天の君」(ちてんのきみ)と言いました。
治天の君と天皇の関係は、徳川幕府の大御所(おおごしょ)と将軍、鎌倉幕府の得宗(とくそう)と執権の関係に似ています。
さて、当時の3人の上皇はいずれも遷幸(せんこう/天皇や院が島流しにされること)してしまったので、10歳の天皇の上に、最高責任者がいなくなってしまいました。
そこで、新帝の父である行助法親王を「治天の君」にすることになりました。
天皇経験者でないのに、治天の君になったのは、後にも先にもこの人だけです。
法親王は後鳥羽院と同じく、高倉天皇の皇子だったので、「後高倉院」と呼ばれることになりました。天皇に「後」の字がつくと「後鳥羽」(ごとば)のように、「ご」と読むのが普通ですが、この人だけは、天皇経験者と区別するために「のちたかくらいん」と読むことになっています。
「ごたかくらいん」と呼ぶこともないわけではありませんが。
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