昨日、清正は、築城の名人だったという話をしました。
そこを見込まれて、家康の命令で、名古屋城(御三家の一つ)を作るのにも駆り出されました。自分の費用で建築しなければならないのですから、大変な負担です。清正や福島正則のような、豊臣に忠誠を誓いそうな大名には、その経済力を弱めるために、こういう工事を押しつけたのでした。
この工事のときも、正則といっしょだったのですが、正則が徳川家に対して不平を呟いたとき、清正が、「それがいやなら謀叛をするしか仕方がないな」と言って、諦めさせたという話が伝わっています。
1611年、後水尾天皇が践祚(せんそ)し、そのお祝いに家康が上洛しました。
このとき、家康は大坂の豊臣秀頼(秀吉の跡継ぎ)に、京都の二条城まで挨拶に来るように命令しました。
清正は家康に頭を下げることを拒絶する淀殿(秀頼の母)を説得して、秀頼の上洛を実現させました。
この、家康と秀頼の対面のとき、清正は終始秀頼に付き添い、秀頼の身に何かあったときは、家康と刺し違えるつもりだったと言われます。
秀頼を無事大坂に返した清正は、熊本に帰りますが、その旅の途中、船中で発病して、帰国してから死亡しました。家康に毒饅頭を食べさせられたのが原因だという説が根強く残っています。
清正は、自分は豊臣家のために滅んでもよいが、子供の代になったら、そこまで忠誠を貫く必要はない、と子供には言っていたようです。
果して、後を継いだ忠広(ただひろ)は、大坂の陣でも、豊臣攻撃に参加しました。
それなのに、ちょっとしたことから、改易処分にされ、1632年、加藤家は滅んでしまいました。
ただ、お情けで、出羽に1万石を与えられ、加藤家は一応存続することはできました。
励みになりますので、クリックをお願いします。
にほんブログ村 日本史
人気ブログランキングへ
そこを見込まれて、家康の命令で、名古屋城(御三家の一つ)を作るのにも駆り出されました。自分の費用で建築しなければならないのですから、大変な負担です。清正や福島正則のような、豊臣に忠誠を誓いそうな大名には、その経済力を弱めるために、こういう工事を押しつけたのでした。
この工事のときも、正則といっしょだったのですが、正則が徳川家に対して不平を呟いたとき、清正が、「それがいやなら謀叛をするしか仕方がないな」と言って、諦めさせたという話が伝わっています。
1611年、後水尾天皇が践祚(せんそ)し、そのお祝いに家康が上洛しました。
このとき、家康は大坂の豊臣秀頼(秀吉の跡継ぎ)に、京都の二条城まで挨拶に来るように命令しました。
清正は家康に頭を下げることを拒絶する淀殿(秀頼の母)を説得して、秀頼の上洛を実現させました。
この、家康と秀頼の対面のとき、清正は終始秀頼に付き添い、秀頼の身に何かあったときは、家康と刺し違えるつもりだったと言われます。
秀頼を無事大坂に返した清正は、熊本に帰りますが、その旅の途中、船中で発病して、帰国してから死亡しました。家康に毒饅頭を食べさせられたのが原因だという説が根強く残っています。
清正は、自分は豊臣家のために滅んでもよいが、子供の代になったら、そこまで忠誠を貫く必要はない、と子供には言っていたようです。
果して、後を継いだ忠広(ただひろ)は、大坂の陣でも、豊臣攻撃に参加しました。
それなのに、ちょっとしたことから、改易処分にされ、1632年、加藤家は滅んでしまいました。
ただ、お情けで、出羽に1万石を与えられ、加藤家は一応存続することはできました。
励みになりますので、クリックをお願いします。
にほんブログ村 日本史
人気ブログランキングへ
