清康(きよやす)・広忠(ひろただ)・家康という三代の名はおぼえておいてよいでしょう。
徳川家康の祖父は清康、父は広忠という名でした。姓は松平。
清康は十三歳で家督を継ぎました。その父(信忠)が粗暴な性格のために、家来たちから引退を強要され、幼い清康が殿様の座につけられたのです。
この清康は背は非常に低かったと言われますが、優秀で人望のある人物。長く生きていたら、五十年早く天下の統一をなし遂げていたのではないかと言われることもあります。
とは言っても、三河国(みかわのくに)のうち、岡崎を中心とする一帯を支配していたに過ぎませんでした。
この清康が、若干二十五歳のときに、非業の死を遂げることになります。
ちょっとした誤解から、家来の一人に斬殺されてしまったのです。
松平氏は新興の大名ではありましたが、有望株とみなされ、織田氏をライバルとして、領土を拡げようと、いくさに次ぐいくさを繰り返していました。
そして、1535年、尾張を攻めようと守山まで来た冬の朝、近習(きんじゅ/小姓などの側近)の一人が、自分の父親が清康に手討ちにされたという全くの勘違いから、切りかかり、殿様を殺してしまったのです。下手人の名は阿部弥七郎(やしちろう)。
この事件を「守山崩れ」と言います。
清康の跡を継いだのが広忠。清康の十三歳よりもさらに幼い十歳でした。
清康のときは、まだそれなりの大名でしたが、家中のごたごたのために、勢力も弱まり、いよいよ織田氏の侵略を受けることになりました。
この弘忠に忠義を尽くして松平家を盛り立てたのが阿部定吉(さだよし)。なんと、清康を殺した弥七郎の父親です。
息子の罪で処分されるところを許され、もともと誠実な人柄だったので、命をかけて恩を報いたのでした。
広忠は十六歳のときに、近隣の大名である水野家の娘、十四歳のお大(おだい)と結婚し、翌年、家康が生まれました。1542年のことで、幼名は竹千代。
竹千代(家康)が生まれた直後、母方の祖父(お大の父・水野忠政)が死亡し、跡を継いだお大の異母兄の信元(のぶもと)が織田家(当時は信長の父の信秀)と提携することになりました。
織田家を仇敵とする広忠と、織田家についた信元は敵味方に別れ、お大は、離縁されて実家(信元の所)に返されました。
それ以後、十九歳のときまで、家康は母に敢えない運命だったのです。
織田にいじめられた広忠は、今川に頼ることに決め、その代償に、わずか六歳の竹千代を人質として駿府に送ることになりました。
そこでまた、とんでもないことが起こりました。
継母(広忠の後妻)の父親(これも小領主)が、竹千代を途中で誘拐して、織田信秀に渡してしまったのです。これは、金が目当てだったと言われますが、報奨金があまりにも少ないので、それよりは、織田に近づきたかったのでしょう。
竹千代は、織田家の人質になりました。
織田信秀は、広忠に使者を送り、「息子の命が惜しければ、今川と手を切って、こちらにつけ」と脅迫しました。
広忠はどうしたと思いますか。
驚いてはいけません。「息子の命より今川との信義を守る方が大事だ。勝手に殺してくれ」と答えたのです。
信秀も驚きましたが、そこまで開き直られたら、腹癒せ(はらいせ)に竹千代を殺しても、一文(いちもん)のトクにもなりません。生かしておけば、将来使い道も出てくるだろうと思って、けっこう自由な客人として扱うことにしました。
そして、八歳上の信長とも兄弟のような付き合いをすることになり、将来の同盟の基礎を築いたのでした。
ところが、二十四歳の広忠が近習に刺し殺されるという事件が起こります。
いや、清康と勘違いして、同じことを二回書いたわけじゃありませんよ。
家康の父も、祖父と同じように、近習に殺されてしまったのです。ただし、今度は誤解などでなく、犯人の岩松八弥(いわまつはちや)は、三河の小大名のスパイだったのです。
1949年と言いますから、守山崩れから14年後のことでした。
清康を斬殺した阿部弥七郎も、広忠を刺し殺した岩松八弥も、その場で、他の家来に討ち果たされました。
阿部を斬ったのは植村新六郎。
岩松を斬ったのは植村新六郎。
同一人物です。
なんという不思議なめぐり合わせでしょう。新六郎は、ふたりの主君の仇を討つことになったのです。
しかも、清康も、広忠も、村正の銘のある刀で殺されたので、徳川家にとって、村正は不吉な刀となりました。妖刀村正という言葉があるのは、ここから来ています。
後年、家康が間違って、刀で手を少し傷つけたとき、その刀が村正だと聞いて、「案の定(あんのじょう)」と呟いたという話が伝わっています。
逆に、明治維新のとき、勤皇の志士たちは、徳川家にとって不吉な村正を探し出して、腰に差していたとも言われます。
もっとも、広忠の死はただの事故で、新六郎が二回目の下手人を斬ったという話は嘘だという説もあります。
そしたら、全然面白くないんですけどね。
でも、江戸時代を通じて、そう信じられていたというのは事実です。
広忠が死んだ後、岡崎を根拠地にして、三河全体を支配しようともくろむ今川義元(よしもと)は、織田家から竹千代を取り返そうと画策します。
義元は、織田家の出先の城である安祥(あんじょう)城を攻めて、信秀の長男・信広(信長の異母兄)を捕虜にしました。
そして、竹千代と、捕虜交換を行いました。
今度は今川の人質になって、駿府(静岡市)に行くことになったのです。
ここで竹千代は、義元の一字をもらって、元康と名乗りました。
家康と名乗るのは、桶狭間の後、今川と縁を切ってからです。
駿府に着いたとき、竹千代はまだ八歳でした。
ランキングに参加しています。クリックをお願いします。
↓

徳川家康の祖父は清康、父は広忠という名でした。姓は松平。
清康は十三歳で家督を継ぎました。その父(信忠)が粗暴な性格のために、家来たちから引退を強要され、幼い清康が殿様の座につけられたのです。
この清康は背は非常に低かったと言われますが、優秀で人望のある人物。長く生きていたら、五十年早く天下の統一をなし遂げていたのではないかと言われることもあります。
とは言っても、三河国(みかわのくに)のうち、岡崎を中心とする一帯を支配していたに過ぎませんでした。
この清康が、若干二十五歳のときに、非業の死を遂げることになります。
ちょっとした誤解から、家来の一人に斬殺されてしまったのです。
松平氏は新興の大名ではありましたが、有望株とみなされ、織田氏をライバルとして、領土を拡げようと、いくさに次ぐいくさを繰り返していました。
そして、1535年、尾張を攻めようと守山まで来た冬の朝、近習(きんじゅ/小姓などの側近)の一人が、自分の父親が清康に手討ちにされたという全くの勘違いから、切りかかり、殿様を殺してしまったのです。下手人の名は阿部弥七郎(やしちろう)。
この事件を「守山崩れ」と言います。
清康の跡を継いだのが広忠。清康の十三歳よりもさらに幼い十歳でした。
清康のときは、まだそれなりの大名でしたが、家中のごたごたのために、勢力も弱まり、いよいよ織田氏の侵略を受けることになりました。
この弘忠に忠義を尽くして松平家を盛り立てたのが阿部定吉(さだよし)。なんと、清康を殺した弥七郎の父親です。
息子の罪で処分されるところを許され、もともと誠実な人柄だったので、命をかけて恩を報いたのでした。
広忠は十六歳のときに、近隣の大名である水野家の娘、十四歳のお大(おだい)と結婚し、翌年、家康が生まれました。1542年のことで、幼名は竹千代。
竹千代(家康)が生まれた直後、母方の祖父(お大の父・水野忠政)が死亡し、跡を継いだお大の異母兄の信元(のぶもと)が織田家(当時は信長の父の信秀)と提携することになりました。
織田家を仇敵とする広忠と、織田家についた信元は敵味方に別れ、お大は、離縁されて実家(信元の所)に返されました。
それ以後、十九歳のときまで、家康は母に敢えない運命だったのです。
織田にいじめられた広忠は、今川に頼ることに決め、その代償に、わずか六歳の竹千代を人質として駿府に送ることになりました。
そこでまた、とんでもないことが起こりました。
継母(広忠の後妻)の父親(これも小領主)が、竹千代を途中で誘拐して、織田信秀に渡してしまったのです。これは、金が目当てだったと言われますが、報奨金があまりにも少ないので、それよりは、織田に近づきたかったのでしょう。
竹千代は、織田家の人質になりました。
織田信秀は、広忠に使者を送り、「息子の命が惜しければ、今川と手を切って、こちらにつけ」と脅迫しました。
広忠はどうしたと思いますか。
驚いてはいけません。「息子の命より今川との信義を守る方が大事だ。勝手に殺してくれ」と答えたのです。
信秀も驚きましたが、そこまで開き直られたら、腹癒せ(はらいせ)に竹千代を殺しても、一文(いちもん)のトクにもなりません。生かしておけば、将来使い道も出てくるだろうと思って、けっこう自由な客人として扱うことにしました。
そして、八歳上の信長とも兄弟のような付き合いをすることになり、将来の同盟の基礎を築いたのでした。
ところが、二十四歳の広忠が近習に刺し殺されるという事件が起こります。
いや、清康と勘違いして、同じことを二回書いたわけじゃありませんよ。
家康の父も、祖父と同じように、近習に殺されてしまったのです。ただし、今度は誤解などでなく、犯人の岩松八弥(いわまつはちや)は、三河の小大名のスパイだったのです。
1949年と言いますから、守山崩れから14年後のことでした。
清康を斬殺した阿部弥七郎も、広忠を刺し殺した岩松八弥も、その場で、他の家来に討ち果たされました。
阿部を斬ったのは植村新六郎。
岩松を斬ったのは植村新六郎。
同一人物です。
なんという不思議なめぐり合わせでしょう。新六郎は、ふたりの主君の仇を討つことになったのです。
しかも、清康も、広忠も、村正の銘のある刀で殺されたので、徳川家にとって、村正は不吉な刀となりました。妖刀村正という言葉があるのは、ここから来ています。
後年、家康が間違って、刀で手を少し傷つけたとき、その刀が村正だと聞いて、「案の定(あんのじょう)」と呟いたという話が伝わっています。
逆に、明治維新のとき、勤皇の志士たちは、徳川家にとって不吉な村正を探し出して、腰に差していたとも言われます。
もっとも、広忠の死はただの事故で、新六郎が二回目の下手人を斬ったという話は嘘だという説もあります。
そしたら、全然面白くないんですけどね。
でも、江戸時代を通じて、そう信じられていたというのは事実です。
広忠が死んだ後、岡崎を根拠地にして、三河全体を支配しようともくろむ今川義元(よしもと)は、織田家から竹千代を取り返そうと画策します。
義元は、織田家の出先の城である安祥(あんじょう)城を攻めて、信秀の長男・信広(信長の異母兄)を捕虜にしました。
そして、竹千代と、捕虜交換を行いました。
今度は今川の人質になって、駿府(静岡市)に行くことになったのです。
ここで竹千代は、義元の一字をもらって、元康と名乗りました。
家康と名乗るのは、桶狭間の後、今川と縁を切ってからです。
駿府に着いたとき、竹千代はまだ八歳でした。
ランキングに参加しています。クリックをお願いします。
↓
