私利私欲に出づるにあらずと言えるのみ

 昨日の記事にも登場した本庄繁侍従武官長は、叛乱軍に同情的でしたので、天皇に向かって「彼らのしたことは許せないにしても、その国を思う心情はお汲み取りください」と上奏しました。

 すると、天皇は不快感をあらわにして、「それはただ、私利私欲に出づるにあらずと言へるのみ」と答えたのです。

 

 僕は昭和天皇語録の中で、この言葉が一番好きです。

 

 学生運動の時代、過激派の学生たちを「私利私欲のためにしているのではないのだから」と言って弁護する人が多く、それが考えのない若者たちを増長させてしまったのです。

 

 

 私利私欲がなければ何をしてもいいというのなら、チンピラが、ムカムカするというだけの理由で、人を殴るのは、許せることになります。

 中学生のいじめなどというのも、金を脅し取りさえしなければ、私利私欲のためではないのですから、心情を汲み取ってやるべきだ、ということになってしまいます。

 

 かつて、「いじめがはやるのは、受験競争による抑圧が爆発するのだ」というのが、若者に対する「宥和主義者」(言い換えれば進歩派)の常套句でした。

 でも、若年人口の減少によって、受験競争がこれだけ緩和されたのに、いじめは逆に増えるばかりではありませんか。

 進歩的な人々の人生観・人間観・世界観には、どこか根本的な欠陥があるのです。

 

 中学生がいじめに走る最大の原因は、いじめっ子になると、女の子に人気が出るからです。また、先生たちもいじめっ子が怖いものですから、「彼らにも悩みがあるからだ」などと甘いことを言ってくれます。

 いじめっ子になるといいことづくめなのです。

 教師たちは、いまだに日教組の教育観から脱却できず、「暴力事件があっても警察を呼んではいけない。それは、生徒を国家権力に引き渡すことになる」と言う考えを持っています。

 これじゃあ、いじめがなくなるはずはありません。

 

 二・二六事件の若い将校たちも、自分たちの「純粋さ」が国民に受けることを読んでいました。

 僕がムカムカするのは、事件の報を聞いて集まって来た市民たちの前で、首謀者の将校たちが、演説をしたということです。

 市民もそういうものにはすぐに阿諛追従します。

 拍手喝采して、「今度は○○中尉殿、お願いします」などと声がかかると、○○中尉が

颯爽と仮設の演壇に登るのです。

 

 こんなスター気取りの連中に国を掻き回されてはならないのです。

 

 昭和天皇は、その点、人間というものを観察する目を持っていました。

 ただ一人、ゆらぐことなく鎮圧を主張した天皇の意気込みに押されて、ついに軍は鎮圧の方針を決定したのです。

 

 二・二六事件に当たっては、戒厳令が敷かれました。

 しかし、軍のやることは、いつも馴れ合いで、戒厳司令官に任ぜられた香椎浩平中将は、皇道派だったのですから、唖然とするしかありません。

 香椎は一時は、叛乱軍の要求を入れて「昭和維新」断行の聖断を仰ぐべきだ、という途方もないことを言い出しました。

 その理由が「皇軍相撃」を避けるべきだから、ということですから、ワルの生徒に対処できない教師たちにそっくりですよね。

 

 「皇軍相撃」というのは、叛乱軍鎮圧のために部隊を出動させると、天皇の軍隊同士が戦うことになるから、何があっても、それは避けなければならない、という意味です。

 

 しかし、香椎中将も、天皇の意志が固いことを強調されて、ついに「決心変更。討伐を断行せん」と覚悟を決めるに至りました。

 

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朕自ら子近衛師団を率いて鎮定に当たらん

 昭和天皇はかつて、本庄侍従武官長に向かって「自分は肉体的にはおまえたちと変わる所がないのに、神というのはおかしいではないか」と言ったことがあります。

 侍従武官長は「そのお気持ちはよく分かりますが、兵の教育上、そういうことをおっしゃられると困るのであります」と奉答したと言いますから、笑える話です。

 

 天皇は、そのような合理的な考えを持っていた上、憲法遵守の気持ちが誰よりも強かったので、天皇親政など思いも寄らないことでした。

 皇道派は「天皇のためなら喜んで死のう」と考えていたのですが、天皇はそういう皇道派が大嫌いでした。今風に言えば、ストーカーにつきまとわれたアイドルが、「うざい」と感じるようなものでしょう。

 

 皇道派といえば、もう一つ、驚くべき裏話があります。

 叛乱軍の中には、最終的に自分たちの意見を通すために、宮城(きゅうじょう)を占拠し、天皇にピストルを突きつけて、言うことを聞かせようとまで考える者がいたそうです。ストーカーがアイドルを脅迫するような話です。

 

 彼らは、抽象的な皇室というものは大事に思っていましたが、天皇個人については、その人間性を認めず、いや、神性も認めず、ツールとして使えばよい、というクールな考えだったのです。

 叛乱軍の指導者として死刑になった北一輝(きたいっき)の理論は「天皇制社会主義」と言われることが多いのですが、要するに、社会主義革命をしたかったのではないのでしょうか。その社会主義国家の元首を世襲の天皇にするというだけの話で、考えてみれば、金王朝下の北朝鮮のような国を作ろうとしていたのでしょう。

 

 殺傷された高官たちは、天皇が信任する股肱の臣ばかりでした。

 「股肱」とは「もも(腿)」と「ひじ(肘)」のことで、転じて、君主が信頼する臣下のことを言います。

 とくに、母とも慕う足立タカ(おとといの記事を参照してください)の夫が重傷を負わされたのですから、叛乱軍に好意を持てるはずがありません。

 

 そもそも、政府や軍の上層部はおろおろして、叛乱軍に妥協しようとしていたのに、天皇が断乎として鎮圧を命じたために、風向きが変わって来たのです。

 「叛乱軍」という言葉自体、天皇が言い出したのだという話です。

 天皇は言いました。

 「(政府も軍も何もしないというのなら)朕自ら近衛師団を率いて鎮定に当らん」

 あの穏やかな風貌の昭和天皇がここまでおっしゃるとは驚くでしょう。

 

 近衛師団って、まあ親衛隊みたいなものですよ。

 

 明日は「天皇と叛乱軍」の関係をもっと研究してみましょう。

 

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天聴に達せられあり

  二・二六事件の第4話です。

 要人暗殺に成功した叛乱部隊は、官庁街を占領することに成功しました。

  ただ、このクーデターが未熟だったと言われる理由が一つありました。

  それは日本放送協会(NHK)を抑えて、国民にPRをしようとは思いつかなかったことです。事実、叛乱軍は、クーデターの後、どういう改革をしようかということについて、明確な方針を持ってはいなかったと言います。

  真崎甚三郎大将を首班にして、皇道派内閣を作るというだけで、その後は人任せという様子だったようです。

 

  その真崎大将は、朝早く、叛乱軍の占拠する陸軍省を訪れました。

  入って行くなり、いきなり言った言葉が「とうとうやったか。おまえたちの心はヨオックわかっとる。ヨオックわかっとる」だったそうです。

  若い将校に担がれて、あわよくば首相になってやろうという下心が見え見えだったのです。

  真崎は、クーデター計画について、ある程度の情報を得ていたとも言われます。

  しかし、事件が失敗に終わると、口を拭って知らぬふりをし、軍法会議では起訴されましたが、無罪の判決を受けました。

 

  ずるい軍人は他にもいました。

  まずは、陸軍大臣・川島義之。

  川島も早朝、叛乱軍と面会していましたが、曖昧な態度に終始しました。そこへやって来た真崎にせっつかれて、参内して、事件の報告をしましたが、報告しただけで、何の意見も言わずに退出してしまいました。

 川島も皇道派だったので、叛乱軍に好意的でしたが、天皇が怒っているので、弁護もできず、陸軍大臣として何の行動に移ることもしませんでした。

  後で、閣僚全員が辞表を提出したとき、昭和天皇は、側近に向かって、「陸相は責任者であるのに、辞表の内容が他の閣僚と同じであるのは理解できない」と言って不快の念を表明しました。

 

  荒木貞夫や石原莞爾(かんじ)なども、叛乱軍から慕われていた将軍だったので、最初は、クーデターに乗ってしまおうという野心を持っていたようですが、だんだん形勢が悪くなるのを見て、叛乱軍を弾圧する意見へと傾いて行きました。

 

  どうして形勢が悪くなって行ったかというと、昭和天皇が、厳しい姿勢を取りつづけたからでした。

  それについては、明日説明しますが、陸軍大臣はそれでも曖昧に、叛乱軍を宥める告示を出して、辞退を有耶無耶(うやむや)に収拾しようとします。

  その代表とも言うべき台詞が、告示の中の第一「蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり」でした。(「就」は「ついて」と訓みます)

  原案では「達せられたり」だったのですが、「たり」を「あり」に変えたのです。

 

  「天聴に達する」というのは「天皇の耳に入る」という意味なのですが、「達せられたり」というと、「たり」が断定的なので、「天皇がおまえたちの意見をお認めになった」というニュアンスがどうしても感じられてしまいます。

  ところが、天皇は怒っているわけですから、流石(さすが)にそれでは嘘をついたと言われかねません。

 「達せられあり」といえば、そのニュアンスが薄まって「天皇の耳には入った」と言っているだけで、「お認めになった」という感じは薄くなりますから、後で責任を問われることもないだろうと考えたのです。

  軍人というのも、結構、汚い連中ばかりだったんですよね。

 

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襲撃された天皇の寵臣

 二・二六事件の3回目です。

 脱出に成功した岡田に次いで劇的だったのが、侍従長・鈴木貫太郎でした。

  鈴木は若いころ、日露戦争の日本海海戦で、魚雷艇を率いて活躍した英雄でした。

  昭和天皇の信任が篤く、侍従長と枢密顧問官を兼ねていました。皇道派は、枢密院が聖明を曇らせる「君側の奸」だと信じていましたので、鈴木が狙われたのはそのせいだったのです。

 

  「聖明を曇らせる君側の奸」というのは、「本来聡明であるはずの天皇のお考えを誤らせる悪人の側近」という意味です。天皇の信頼が篤くても、それは天皇が騙されているのだから、そんな側近は殺してしまうのが天皇のためだ、という理屈だったのです。

 

  鈴木を襲った将兵は二百名。指揮官は安藤輝三(てるぞう)大尉でしたが、下士官が鈴木を見つけ、安藤が到着しないうちに、発砲しました。

 昨日説明した斎藤と同じように、夫人が覆いかぶさりました。

  駆けつけた安藤大尉に、夫人が命乞いをしました。安藤はとどめを刺すのをためらって、そのまま引き上げました。

  この安藤という人は、反乱軍の首謀者の中で一番の人格者と言われる人で、事件にも躊躇しながら参加したと言われています。以前に、鈴木に会って、やや鈴木を尊敬している風があったようです。初めから、出来れば殺したくないと思っていたようです。

 

  ところで、夫に覆いかぶさって命を救った夫人の名はタカ。旧姓は足立と言いましたが、この女性は、独身時代から歴史に名の出て来る人でした。

  昭和天皇が小学校に入る前に、その養育係をしていたのです。

  その前は、学習院幼稚園の保母だったのですが、特に抜擢されて、裕仁親王のお世話をすることになりました。

  昭和天皇は、終戦後になってから、「タカは私の母親のようなものだった」と回想しています。

 

  一方、鈴木貫太郎は、二・二六から約十年後の終戦のときに、身命を投げ打って、ポツダム宣言の受諾に漕ぎ着けます。

  天皇も戦争終結を実現できるのは鈴木以外にはいないと確信して、大命を下したのです。

  このとき、鈴木は高齢を理由に辞退しました。

  そりゃあ、こんな大変な時期に首相になんかなりたくはなかったでしょう。

  しかし、天皇から「頼むから引き受けてくれ」と言われたために、余儀なく印綬を帯びることになったのです。

  大日本帝国憲法下の約六十年の歴史の中で、総理に就任するのに、天皇が「頼むから」と言ったのはこの人だけでした。

  夫婦揃って、皇家(こうけ)のために、一生を捧げたのでした。

 

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岡田首相の救出

二・二六事件で一番有名なのは、岡田首相の脱出劇でしょう。

  栗原安秀中尉率いる3小隊が首相官邸(現在と同じ、国会議事堂の近くです)に乱入しました。総勢三百名。

  これに対して、わずか4名の警官が拳銃で応戦したというのですから、立派なものでした。全員、見事な殉職を遂げました。

 

  岡田はとっさに、女中部屋の押し入れに隠れました。

  叛乱軍は目標を見失って途方に暮れますが、そこに、岡田の義弟・松尾伝蔵大佐が自ら姿を表します。

  叛乱軍が誰何すると、松尾は「岡田だ」と名乗ります。そして、銃殺されたのです。

  この話には感動しますよね。叛乱軍が殺した相手の美談を捏造することはないでしょうから、実話だったのでしょう。

  「誰何(すいか)する」って、「おまえは誰だ」と訊くことですよ。

 

  松尾は、岡田の妹の夫で、血がつながっているわけではありませんが、どういうわけか、二人が並んでいる写真は、顔がよく似ています。

  叛乱軍は、写真でしか岡田の顔を知りませんでしたから、松尾を岡田と思い込んで、襲撃は成功したと信じたのです。

 

 翌27日、首相秘書官たちは策を巡らせ、年寄りばかりを選んで、弔問客として官邸に入れ、帰る際に、変装した岡田を、客に紛れさせて、脱出させることに成功しました。

 

  殺されたのは、内大臣・斎藤実(前首相)と、昨日の記事に出て来た、陸軍教育総監・渡辺錠太郎、それと、大蔵大臣・高橋是清でした。

     

  斎藤邸を襲った軍勢は百五十名。

  斎藤は全身に数十箇所の弾丸を打ち込まれ、さらに数十箇所を軍刀で斬られて絶命しました。夫人が斎藤に覆いかぶさって庇いましたが、叛乱軍はそれを引き離して、さらに発砲しました。夫人も重傷を負ったのですから、その残酷さは目を覆うものがあります。

 

 渡辺教育総監を襲ったのは三十名。ここだけ人数が少なかったのは、目標として軽視していたのでしょうか。

  渡辺も、拳銃と機関銃で撃たれ、これまた軍刀で斬られて死にました。しかし、この人は勇敢に戦いました。拳銃で応戦し、叛乱軍2人に傷を負わせたのです。

  総監の拳銃の弾倉には、弾丸は一発も残っていなかったということです。

 

 高橋蔵相の私邸は百二十人に襲われました。就寝中の高橋は、布団を剥がされて、やはり銃と軍刀で惨殺されたのです。

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二・二六事件勃発

二・二六事件が起こったのは、1936(昭和11)年のことでした。

 1932(昭和7)年の五・一五事件は、犬養首相を暗殺しただけの小規模なもので、後に二・二六事件にそろえた名前で呼ぶようになっただけの話。

  それに比べると、二・二六事件は、政府・軍の首脳7人を襲撃し、そのうちの3人を殺害、2人を負傷させました。五・一五とは規模がまるで違います。

  戦前の日本で、クーデターの名に値するのは、二・二六事件だけだったと言っても過言ではありません。

 

  もう一つの違いは、五・一五事件が海軍士官の主導だったのに対して、二・二六事件は陸軍の皇道派だけの蹶起だったということです。

  そして、五・一五事件の犯人たちの刑が予想外に軽かったことが、二・二六事件を誘発したと言われています。

  豈に料らんや、二・二六事件の犯人たちは、民間人まで含めて、厳しい判決が下されました。

  五・一五は、軍内部の馴れ合いで裁判をしたので、甘い処分で終わったのです。

  ところが、二・二六では、後に述べるように、昭和天皇の怒りが甚だしく、皇道派の将軍たちは口を挟むことができませんでした。それを奇貨として、統制派が、徹底的に対立派を潰してしまおうと画策し、その思惑どおり、以後は統制派の天下になって行くのです。

  これが太平洋戦争に向かうきっかけになったという説もありますが、皇道派の方が好戦的だったのですから、その推測は当たっていないのではないでしょうか。

  穏健な方の統制派の下で戦争に突入して行ったのですから、どの道、これは日本の避けられない運命だったのでしょう。

 

  叛乱部隊を率いた士官は総勢17名。全員が尉官(大尉・中尉・少尉)で、まだ30歳前後の者ばかりでした。

 それに従うのは、1500名に垂んとする下士官・兵でした。(「垂」は「なんなんとす」と読み、「それに近い数」を表します)

 

  二・二六事件の前駆となったのは、前年の相沢事件(昨日の記事を読んでください)でした。

  この一連の皇道派の行動の引き金となったのは、相沢事件の1ヵ月前の、真崎甚三郎・陸軍教育総監の更迭でした。

  教育総監というのは、兵の教育を監督するトップの地位です。

  この真崎が皇道派の希望の星だったのですが、軍の主流を固めつつあった統制派が、これを排除して、渡辺錠太郎をその代わりに据えたのです。もちろん、渡辺は統制派でした。

 

  2月25日から26日にかけての夜は、東京は大雪でした。

  叛乱軍は、忠臣蔵の討ち入りの夜が大雪だったことになぞらえて、縁起がよいと言って喜んでいました。

  雪を蹴立てて、叛乱軍は、重臣6人を襲撃したのです。

 

  他に、陸軍省、参謀本部、警視庁も叛乱軍に抑えられることになりました。

  新聞社も襲われましたが、決起趣意書を手渡されただけですみました。朝日新聞社だけが活字ケースを引っ繰り返されたので、一番反軍的だったという神話が生まれることになりました。

  

  明日からは襲撃の仔細をお話しましょう。

 

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白昼の事務局長斬殺

  二・二六事件の前触れとなった事件は、昨日簡単に触れた「士官学校事件」と、今日の「相沢事件」です。

  当時の陸軍省は、統制派の永田鉄山軍務局長が仕切っていました。永田は統制派のホープで、皇道派を弾圧していたので、前々から粛清リストに挙げられていました。

 

  相沢三郎中佐は、剣道の達人で、陸軍の学校(戸山学校)で武道を教えていました。あまりに狂信的な皇道派で、異様な言動が目立ったので、福山に飛ばされ、さらに、台湾へ左遷されることになっていました。

 剣道の達人で異様な人物なのですから、目をつける人はつけるもので、海軍が起こした五・一五事件の時にも、蹶起に参加するように誘われていました。

 

  二・二六事件の前年、1935(昭和10)年の8月、相沢は福山から、台湾赴任のために上京しました。

  朝早く、陸軍省を訪問し、案内を請わずに軍務局長室に侵入しました。

  そして、憲兵と言葉を交わしていた永田に切りかかったのです。

  相沢の叫んだ言葉は「天誅!」だけでした。

  「誅」は「罪ある者を討つ」の意味ですから、「天誅」は「天に代わって、悪人を討伐する」の意味です。

  永田は逃げましたが、ドアの所でつかまり、相沢は軍刀を槍のように構えて、永田を刺し殺しました。

 

 相沢は駆けつけた軍人たちに向かって、落ちついた態度で、「これから台湾へ赴任する」と語って去ろうとしました。罪を犯したという自覚が全くない様子だったということです。

  相沢はそのまま憲兵に逮捕されました。

  軍にとっても、日本にとっても、情けないことは、この重大犯人の知性は、取り調べた憲兵たちが愕然としたほどに低かったということです。

  相沢はひたすら「統帥権干犯」という言葉を口にするのですが、係官が詳しく説明するように要求すると、口ごもって、それ以上は何も理解していなかった様子だったということ。

  いやしくも陸軍士官学校を出ているのですから、そんなに無知だということがあろうか、と不思議に思うのですが、作り話ではないようです。

 

  剣道の達人が国を思う一念で蹶起したというイメージですから、何か深い思想があるのだろうと思ってしまいます。

  でも、それは小説の世界の話で、現実の世界は、けっこう馬鹿みたいなものなのかも知れません。

 

  相沢は翌年、二・二六事件の後で、死刑になりました。

  相沢事件が二・二六事件の関係者に与えた影響は甚大なもので、前者がなかったら、後者も起こらなかったのではないかと言う人もいます。

 また、二・二六事件の前に判決が下りていたら、裁判官(軍法会議ですから軍人)が、皇道派を怖れて、軽い罪を言い渡していたかも知れません。

 

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二・二六のさきがけ

  岡田内閣は、1934(昭和9)年7月に成立し、1936(昭和11)年2月の二・二六事件で崩壊するまで1年半続きました。

 

  五・一五事件の先駆ともいうべき事件は三月事件と十月事件だったという話はしましたが、二・二六事件の先駆は「士官学校事件」と「相沢事件」でした。

 

  この頃、陸軍を二分していた大きな派閥が「統制派」と「皇道派」でした。

 

  「統制派」は参謀本部や陸軍省を根城にした軍のエリート層が中心で、重要人物としては、東条英機や永田鉄山(ながたてつざん)、それに辻政信が挙げられます。

 この派閥は「高度国防国家建設」をスローガンにして、軍部主導の国家を合法的に構築して行こうと考えていました。

 

  これに対して「皇道派」は、ひたすら「天皇」を仰ぎ、宗教的な国体観念の下に、天皇親政の国家を作り上げようというもので、現場の指揮官が多かったようです。

  もちろん、知的レベルは、「統制派」の方が相当に上だったと言って差し支えないでしょう。

  もっとも、どちらも、軍国主義国家建設を目指すという意味では同じ穴の狢(むじな)でした。

  皇道派が二・二六事件を起こして自滅し、統制派が軍を掌握したことが戦争につながったという人もいますが、それはまったく歴史感覚を欠いた観察だと僕は思います。

  皇道派が権力を握っていたら、もっと早くに戦争に突入していたに違いありません。

  「天皇陛下万歳」に終始する皇道派を、昭和天皇は非常に嫌っていました。

 皇道派の中心人物と目されるのが、荒木貞夫と真崎甚三郎(じんざぶろう)でした。

  荒木は十月事件(1931)が成功していたら、担がれて首相になっていただろうと言われる人物です。

 

 だんだん険悪な世相になって行く中で、1934(昭和9)年、士官学校教官だった、上記の辻政信が、皇道派の青年将校のクーデター計画を摘発しました。これが「士官学校事件」(別名十一月事件)です。

  この事件そのものは、それほど緊迫した計画ではなかったのですが、統制派が皇道派を摘発したのですから、両派の対立がいよいよ深まることになりました。

 

  辻政信という人は、参謀本部の若いエリート、陸軍士官学校は、補欠で入ってトップで卒業したという伝説上の秀才ですが、奇矯な人物で、日本を戦争に引っ張って行った若者の代表のような人でした。

  戦後、参議院議員になりましたが、ある日突然、「ビルマに、日本兵の遺骨を収集に行く」と言って出国した切り、行方不明になりました。

  何か思う所はあったのかも知れません。

  まあ、僕はそのことを評価するわけではありませんが、そういう思い切りが人を引きつけるものを持っていたのでしょう。

 

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戦争を始めた若者たち

 たとえば、テレビドラマで、昭和前期の軍国主義時代の軍人たちが登場したとします。

 

  陸軍の軍服を着た五十歳くらいの将軍が、若い士官たちに囲まれて、酒を飲んでいます。

 

  部下たちは、政府を攻撃し、将軍に向かって、「閣下が立たなければ、日本はどうなるのです」と持ち上げます。

  将軍は「おまえたちの純粋な気持ちはよく分かる」などと言って、人気取りをしています。

  こんなとき、将軍は、腹の中で何を考えていると思いますか。

  あわよくば、これに乗っかって、首相の印綬を帯びることができないわけでもない、と悦に入っている所があります。

 そして、一方では、本心、怖くてたまらないのです。

  「こいつらを怒らせたら、殺されるかも知れない」という恐怖に怯えているのです。

 

  現代の中学校の教師が、暴力的な生徒には甘いのは、一つには、怖いからであり、もう一つには、暴力的な生徒に人気があれば、他の教師に大きな顔ができるからです。

  非行少女が粗暴な男とくっつくのも、仲間うちで、大きな顔ができるからだということです。

  大日本帝国の将軍たちも、根は非行少女と同じで、暴力に引かれて、若者の後ろ楯になり、最後はドメスティック・バイオレンスで自滅してしまうのです。

  二・二六事件のとき、ある将軍(真崎甚三郎)が、まだ事件が進行中に、現場の士官たちに面会に行って、「おまえたちの気持ちはよーく分かっとる」と言ったそうですが、この時代の雰囲気を顕著に表しています。

 

  進歩的な人たちの常套句の一つに「戦争を起こすのは老人たちで、死んで行くのは若者だ」というのがあります。

  これも、テロを恐れる将軍たちの気持ちの引っ繰り返しに過ぎません。

  若者に媚びているだけなのです。

 

  老人は戦争などという面倒なことはしたくありません。

  威勢のよい若者たちが、かっこいい戦争に引かれるのです。

  太平洋戦争とは、軍や政府のリーダーである老人のうちの一部が、若者に媚びて、いやいやながら開戦を主張し、他の老人たちが、殺されるのが怖くてそれに同調して、しぶしぶ始めたものなのです。

 

  こういうのを「正しい歴史認識」と言うんですよ。

 

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二代続きの海軍内閣

  満州事変が勃発したのは第二次若槻内閣のときでした。

  その後、犬養内閣が成立しましたが、半年後の1932(昭和7)年5月に、五・一五事件で犬養が殺されて、崩壊してしまいました。

  その後が斎藤実(まこと)内閣。斎藤は海軍大将でした。閣僚は官僚中心でしたが、政友会や民政党からも入閣していました。

 

  この斎藤内閣の間に、日本は国際聯盟を脱退し、鳩山文相が滝川事件を引き起しました。

  内閣自体が、軍国主義的、右翼的だったのですが、それに対して、さらに軍や貴族院や右翼が圧力をかけてきました。

 

  「ゴーストップ事件」というのは、1933(昭和8)年のことですが、交叉点で、信号無視をした陸軍兵士と警官が殴り合い、軍と政府が対立することになり、軍はいよいよ政府に対して強硬な態度を取るようになりました。

 

  中島商相を攻撃する「足利尊氏問題」も馬鹿馬鹿しさの極みです。

  足利尊氏は、後醍醐天皇を裏切った逆賊なので、戦前は悪人の代表だったのですが、商工大臣・中島久吉が、尊氏を評価する論文を書いたことが問題になり、ついに辞職に追い込まれました。

 

  そして、鳩山文相が、今度は、収賄事件を起こしてしまいました。事実だったかどうかは分かりません。

 

  閣僚を狙い撃ちする作戦で、斎藤内閣はだんだんとボディブローが効いて来て、満身創痍になって行きます。

 

  そこに勃発したのが「帝人事件」です。

  1934(昭和9)年の始めからだんだんと騒ぎが大きくなってきた汚職事件なのですが、、金融恐慌の所で説明した鈴木商店と台湾銀行を巻き込んだ疑惑で、多数の閣僚や官僚が巻き込まれ、7月にはついに斎藤内閣は責任をとって辞職しました。

  ところが、この事件が、まったくのでっち上げで、背後には枢密院副議長・平沼騏一郎(きいちろう)の陰謀があったということです。

  平沼は副議長から議長に昇格できなかったのを恨んで倒閣を志したというのですからケチな話です。

  昭和天皇が終戦直後に側近に語ったという「昭和天皇独白録」の中で、天皇は「平沼は卑劣な男だと思う」という、信じられないような厳しいことをおっしゃっています。

 

  そういう事情で、斎藤内閣は崩壊しました。

  次の大命はまたもや海軍大将に下りました。軍部の政治介入というと、すぐに陸軍が連想されるのですが、どうしてどうして、海軍もなかなかスミには置けなかったのです。

  もっとも、陸軍のようなひどいことはしないだろうということから、海軍が好まれたという事情はあったようです。

 

  新首相は岡田啓介でした。

  西園寺は最後の元老で、この後は、重臣会議で次の総理を推薦する方式ができたのですが、この組閣の時は、西園寺が重臣会議を召集しました。

  自分が亡き後の首相選任方式を西園寺が決めたことになります。

 

 この内閣のニックネームは「次官内閣」。

 現在では、大臣は原則として国会議員ですが、当時は、官僚である次官(事務次官)がそのまま大臣に昇格することが多かったのですが、その他にも、軍人や政党人も多数入閣していました。

  ところが、岡田内閣は、圧倒的に官僚出身の閣僚が多かったので、「次官内閣」と呼ばれることになりました。(上述のように、斎藤内閣も官僚中心だったのですが)

  次官だから格が低いという意味ではなく、官僚出身者ばかりだという意味なんですよ。

 

  岡田内閣は最初からミソがつきました。

  陸軍の要求に屈して、関東軍の権限を拡大し、満州国を実質上、日本の軍政の下に置いてしまったことでした。

 

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