著者(予備校講師)が家庭教師をします。
東京在住の方は著者が訪問します。生徒が来て下さっても結構です。
地方の方は電話とファックスで授業します。市外通話は非常に安くかけられる方法があるそうです。
東京の方も、御希望なら電話とファックスでいたします。
教科 英語・古文・漢文・日本史・世界史・中国語
対象 中学生・高校生・社会人
日本が大陸に進出して行くにつれて、米英との軋轢が高まり、その分、日本は米英と敵対するナチス・ドイツに接近して行きます。
また、日本にとってはソ連の脅威が切実に感じられていただけに、ドイツに近づけば、ソ連を牽制するのに役立つと思われたからでした。
日独連携の経過を説明してみましょう。
そもそも、声を掛けて来たのは、ドイツの方からでした。
ナチスの外交部長(外相)リッベントロップが、ソ連を仮想敵国とする防衛同盟を提案したのです。それも、日本の外務省に対してでなく、駐独大使館の武官である陸軍少将にプライベートな会談で話しかけたのですから、ドイツでも日本を牛耳っているのは、陸軍だということを理解していたのでしょう。
これは1935(昭和10)年10月のことで、このときの首相はまだ岡田啓介でした。
1936(昭和11)年、二・二六事件の後、岡田内閣が辞職して、広田内閣ができた後、参謀本部は、ほぼ筋書きのできたこの話を外務省に任せたのです。
広田弘毅内閣の外相は、最初の一ヶ月は広田首相の兼任でしたが、4月になって、前駐支大使・有田八郎に代わっていました。「支」は「支那」のことですよ。
有田外相と駐独大使・武者小路公共(むしゃのこうじきみとも)が積極的にこの話を進めました。
最初は軍部が推進した協定ですが、外務省もこれに乗ってしまいました。
外務省の役人たちが保身を図るばかりで、国益や国民のことを考えていないことは、北朝鮮の拉致事件で明らかになりましたが、この時代から、あんまり碌な外交官はいなかったのです。
11月(1936)に日独防共協定が成立しました。
二・二六事件、広田内閣、日独防共協定という動きが、盧溝橋事件の前の年であることは覚えておいた方がよいでしょう。
この協定の文言は、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の破壊活動を防ぐための情報交換が主であり、直接の軍事同盟ではありませんでしたが、いざ日ソ間に戦争が始まった場合には、ドイツが参戦する余地が大きく残されていました。
これが、ソ連のみならず、米英をも刺激することになり、いよいよ世界は二つのブロックに分割されることになって行きました。
一年後の1937(昭和12)年12月には、イタリアが参加して、日独伊防共協定に発展しました。
さらに3年後の1940(昭和15)年、この協定は「日独伊三国同盟」に昇格し、米英との戦争に突き進むことになったのです。
広田弘毅内閣が成立したのは二・二六事件の直後、1936(昭和11)年3月5日のことでしたが、その2カ月後に、大事件が持ち上がりました。
5月7日の衆議院本会議で、民政党の斎藤隆夫代議士が、二・二六事件に関して、陸軍の責任を追及したのです。
斎藤は、第一に、軍人の政治活動を批判し、青年将校の暴走を許した当局、さらにはこれを使嗾した幹部などの責任を追及しました。
「使嗾(しそう)」って、「そそのかす」こと。
第二には、軍に対する不満が高まっているにもかかわらず、公然これを批判することができない「専制武断」を軍が行っていると批判したのです。
斎藤隆夫代議士は、盧溝橋事件の処理に関しても、軍部を非難したために、衆議院から除名されてしまいました。
衆議院が軍の圧力に屈して、斎藤代議士を除名したのですから、こんな情けない話はありません。
こういう話を読んでいると、現在の日本の状況に非常によく似ていると思って、僕は慨嘆を禁じえないのです。
今なお、国務大臣や官僚が、憲法改正の必要性を唱えると、公務員の憲法遵守義務に違反したと非難され、クビが飛びます。
改正の必要を訴えたって、現実に今の憲法にそむいた行動を取らなければ、遵守義務に違反していることになるはずはないのに、それを叩く進歩的マスコミの強弁(こわべん/無理な理屈)は、本当にこの当時の陸軍を思わせるものがあります。
ちょっと考えても分かることですが、政治家や官僚が憲法改正の必要性を口にしてはいけないとなったら、憲法は永遠に改正できないことになってしまうんですよ。それは、国家というものは、絶対に抜本的な改革をしてはいけない、と言っているのと同じことです。
先日、自衛隊の幕僚長が、戦前の日本はそれほどの悪を行っていないと発言したために、その地位を追われました。
ある新聞のコラムは、「このような人物がこのような地位についていたのかと思うとぞっとする」と書きました。
しかし、日本軍が比較的統制の取れた軍隊で、アジア諸国でそれほどの非人道的な行為を行うことがなかったということは、今では常識になってきています。それに沿った発言をしただけで「ぞっとする」と非難するということは、この記者は、自分たちの意見に従わない言論を封殺しようとしているのです。
現在の日本では、進歩的と言われる陣営が、躍起になって言論封殺に走っていることを忘れてはなりません。
戦前の日本軍は軍規が厳しく、兵士が略奪行為をすることはほとんどありませんでした。
現在の進歩派の宣伝を聞きなれている人には信じられないことかも知れませんが、日本軍がアジア諸国を占領した際に犯した、女性に対する暴力的な性犯罪の発生率は、世界で一番低かったという推定があります。
そのような戦前の日本を弁護する意見を口にしただけで、公務員の地位を追われなければならないというのは、進歩派がいまだに、民主主義の意義を理解していないことから来ているのでしょう。
かつて、日教組の先生たちの中には、自衛隊員の子供を立たせて、クラスメートに向かって、「この人のお父さんは悪い人です」と言った人がいたということです。
その時代から、少しも改善されていないんですよね。
さて、そういう話は後回しにして、この当時、軍部が、軍を批判する意見に厳しい弾圧を敷いたことだけは間違いのない事実です。
当時の面白い話があります。
東京帝国大学法学部に、陸軍の将校がやってきて、演説をしました。
将校は、学生たちに向かって、自由主義的風潮に染まっているのがけしからん、と罵り、「おまえたち、ちゃんと軍人勅諭が言えるのか」と恫喝しました。
すると、一人の学生が人ごみに紛れて、下を向いたまま、大声で、「ひとーつ、軍人は政治に関与すべからず」と叫びました。
学生たちは大笑い。
将校は壇上で怒り来るって、軍刀で床を踏み鳴らしますが、犯人が分からないのですから、どうしようもありません。
学生たちもちゃんと軍には反抗していたのです。
ところで、「軍人は政治に関与すべからず」というのは軍人勅諭にはないんですよ。でも、軍は政治から中立を保つのが憲法の真意だということで、それが以前は常識になっていたのに、このころ、軍は政治に関与するようになっていました。
だから、この学生は、それを軍人勅諭のような口調で唱えて、軍を揶揄(やゆ/からかうこと)したわけです。
斎藤代議士はしばらく後になって、除名されてしまいました。
軍は、青年将校の暴走を許した点については反省し、軍の刷新を行いました。もっとも、統制派が、これを奇貨として、皇道派を粛清したというだけのことですから、「反省」という言葉は当たっていないかも知れません。
「これを奇貨(きか)として」というのは、「いいチャンスだから乗ってしまえと思って」ということ。英訳すると、take advantage ofです。
斎藤が指摘した、言論の自由の弾圧に関しては、反省するどころか、いよいよ国論を統一して、戦争への準備を進めたのです。
今日の文章は、ちょっと論理が混乱しているように思う人もいるでしょうから、僕の立場を説明しておきましょう。
僕は、日本軍はアジア諸国で、言われるほどには悪いことはしていなかったし、欧米諸国に比べて、とくに残酷な犯罪を犯してはいなかったと思っています。
しかし、軍が国内で横暴を極め、日本を破滅の淵へ追い込んで行ったことは事実だと思います。
ですから、ある面では弁護し、ある面では批判するのです。
一時期の左翼のように、北朝鮮のすることは一から十まで正しいと主張するような、宗教的な入れ込みが間違っているのです。(昔を知らない若い人は、まさかと思うでしょうが、日本社会党の複数名の党首が「私は金日成主席を尊敬しています」と言ったことがあります。ヒトラーを尊敬すると言うのと同じです。ヒトラーと金親子と、どこが違うというのでしょうか)
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陸相候補に名の上がった寺内寿一大将は、新閣僚候補の顔ぶれに、自由主義者が多すぎると言って非難しました。
このとき、外務大臣に擬せられたのが、戦後の大宰相・吉田茂でしたが、この人は、二・二六事件であやうく難を逃れた牧野伸顕(まきののぶあき)の女婿(じょせい/むすめむこ)でした。
牧野は宮内大臣・内大臣を勤めた、天皇に近い人物ですが、英米寄りの自由主義者と見なされており、そのような人物の女婿は外相にはふさわしくない、というのが陸軍の意見だったのです。
ところで、牧野伸顕は、明治の元勲・大久保利通の息子です。その娘と吉田茂との間に生まれた娘の息子が麻生首相です。
考えてみれば、麻生首相は、大久保利通の玄孫(曾孫の子)なのです。大久保も草葉の影で泣いてるでしょうね。
陸軍は、他にも、美濃部を起訴猶予にした元法相、政党に近い実業家などにクレームをつけました。
軍が内閣に対して、これほどの干渉をしたのは、空前絶後のことです。
しかし、軍部に弱い広田は、どんどん譲歩して、閣僚名簿を書き換えて行きました。
広田の戦争責任と言えば、気が弱くて、軍に抵抗できなかったという「不作為の罪」だったということになるでしょう。
投げ出してしまえばよかったんですよね。
しかし、度重なる軍の横暴に、国民の間にも、ようやく反軍思想が高まって来ていました。
首相官邸で4人の警官が、叛乱軍に拳銃で応戦して殉職した話はしましたが、この4人に対して、全国から多額の弔意金が集まりました。
軍に対する反感が強くなっていたからこその話です。
そうこうするうちに、5月の衆議院本会議で、民政党の斎藤隆夫代議士が、歴史に残る「粛軍演説」を行いました。
民政党というのは、田中義一内閣が成立したときに、田中を嫌って政友会から分かれた政友本党が、憲政会と合併してできた政党ですよ。政友会よりも民主主義的だというイメージがありました。
明日は、この粛軍演説の話をしましょう。
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陸相候補に名の上がった寺内寿一大将は、新閣僚候補の顔ぶれに、自由主義者が多すぎると言って非難しました。
このとき、外務大臣に擬せられたのが、戦後の大宰相・吉田茂でしたが、この人は、二・二六事件であやうく難を逃れた牧野伸顕(まきののぶあき)の女婿(じょせい/むすめむこ)でした。
牧野は宮内大臣・内大臣を勤めた、天皇に近い人物ですが、英米寄りの自由主義者と見なされており、そのような人物の女婿は外相にはふさわしくない、というのが陸軍の意見だったのです。
ところで、牧野伸顕は、明治の元勲・大久保利通の息子です。その娘と吉田茂との間に生まれた娘の息子が麻生首相です。
考えてみれば、麻生首相は、大久保利通の玄孫(曾孫の子)なのです。大久保も草葉の影で泣いてるでしょうね。
陸軍は、他にも、美濃部を起訴猶予にした元法相、政党に近い実業家などにクレームをつけました。
軍が内閣に対して、これほどの干渉をしたのは、空前絶後のことです。
しかし、軍部に弱い広田は、どんどん譲歩して、閣僚名簿を書き換えて行きました。
広田の戦争責任と言えば、気が弱くて、軍に抵抗できなかったという「不作為の罪」だったということになるでしょう。
投げ出してしまえばよかったんですよね。
しかし、度重なる軍の横暴に、国民の間にも、ようやく反軍思想が高まって来ていました。
首相官邸で4人の警官が、叛乱軍に拳銃で応戦して殉職した話はしましたが、この4人に対して、全国から多額の弔意金が集まりました。
軍に対する反感が強くなっていたからこその話です。
そうこうするうちに、5月の衆議院本会議で、民政党の斎藤隆夫代議士が、歴史に残る「粛軍演説」を行いました。
民政党というのは、田中義一内閣が成立したときに、田中を嫌って政友会から分かれた政友本党が、憲政会と合併してできた政党ですよ。政友会よりも民主主義的だというイメージがありました。
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ずいぶん寄り道をして、近衛文麿の話を続けましたが、ストーリーとしては、1936(昭和11)年、二・二六事件の後、組閣の大命が下った近衛が、これを拝辞してしまった所まで来たのでした。
3月4日に大命降下。即日拝辞。
困り果てた元老の西園寺公望(きんもち)は、岡田内閣の外相・広田弘毅(ひろたこうき)に白羽の矢を立てました。
翌5日、大命が降下し、組閣が開始されました。
加藤高明内閣などで、5度も外相を勤めた幣原喜十郎は、「協調外交」を推進しましたが、広田弘毅は、それに準ずる平和主義者というイメージがありました。
広田の外交は「和協外交」と呼ばれました。「協調外交」の発展とも見なされ、日中関係の改善に尽力していたのですが、やはり軍部に対して弱腰で、華北を日本の勢力下に置こうという関東軍の強引な方針を認めてしまっていました。
広田は東京裁判で文官としてはただひとり、A級戦犯として死刑になり、同情の声も聞かれます。しかし、この広田内閣が、戦争への道をさらに一歩切り開いてしまったという事実は残るようです。
もう何度も書いたように思いますが、大日本帝国では、天皇が首相を指名するのが建前です。しかし、実際には、この次期までは元老が、その後は重臣が推薦し、天皇はそれに基づいて大命を下すのです。
そして、元老や重臣も、よく周囲の意見を容れて検討しました。西園寺に広田を強く薦めたのは、一木喜徳郎(いちききとくろう)枢密院議長。この人は、天皇機関説の美濃部達吉のバックにいたと言われる進歩的な人です。
軍部が強くなる前は、多数党の党首が首相になる慣行ができかかっていました。
イギリスと同じ慣行が成立しそうになっていたのであり、そのまま発達していたら、大日本帝国は、戦争を経ないで、素晴らしい民主主義国家へ発展して行くことができていたはずです。それも現在の日本国のような敗戦のトラウムのない、健全な民主主義国家になっていたでしょう。
大命降下の翌日には、早くも新聞辞令(新聞が推測で候補者の名を書くこと)が出まし
た。このときの新聞辞令はかなり正確だったようです。
その中の、陸軍大臣候補・寺内寿一が厄介な人でした。
初代朝鮮総督で、大将中期に首相を勤めた寺内正毅の息子だったのですが、極めて頭の固い人で、陸軍の影響力を強めることだけしか考えていませんでした。
この寺内ジュニアが、他の閣僚の人選に難癖をつけて来たのです。
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近衛文麿は中学は学習院でしたが、そこから第一高等学校へ進みました。
旧制高等学校の中でも、第一から第七までの番号のついている学校は、ナンバースクールと呼ばれて、特別扱いでした。
その他に、東京高校、弘前高校など、2〜3県に一つくらいの割合で官立(国立)の高等学校が存在し、東京だけは、東京府立高校という公立の高校がありました。
私立の旧制高校は武蔵高校と成城高校。
学習院はどうだったんだ、と思うでしょう。
学習院高校は存在していましたが、なんと官立だったんですよ。
皇族・華族のための学校ですから、官立だったのは何の不思議もありません。戦後、私立に変わったのです。
さて、旧制高校の中でも、一高(第一高等学校)は特別の難関で、東京帝国大学よりも遙かに難しいと言われていました。一高を卒業すると、だいたい全員が東京帝国大学に進んだのです。
ただし、東京帝国大学の中でも、文系では、法学部(古くは法科)だけ、志願者が多く、一高を出ていても、成績が悪いと入れなかったようです。
学習院中学を出ると、たいていは学習院高校に進みましたが、近衛は敢えて、一高を受験し、見事に合格しました。
近衛家の跡継ぎだから、どうせコネ入学だろう、などと思ってはいけません。
戦前の帝国大学や旧制高校のプライドは大したもので、昭和ヒトケタ代に、ある典型的な出来事が起こったことがありました。
学習院高校に在学していた、皇族の若様が、東京帝国大学を受験することになりました。なんとそれを察知した新聞が、「学習院の秀才が帝大を受ける」と書き立てました。
ところが、東京帝国大学は、これだけ話題になった、この皇族を落としてしまったのです。
皇室にも屈することがないということで、帝大の権威はいやが上にも高まりました。
一方、海軍兵学校や陸軍士官学校は、皇族は無試験入学でした。これはまあ、「皇族男子は軍人にならなければならない」という法律があったのですから、当然のことでしょう。
というわけですから、近衛が一高に合格したのは、コネではなく、実力だったのです。
ただのお公家さんではなかったわけです。
そして、一高から東京帝国大学文科に進みましたが、やがて、京都帝国大学の法科に転校しました。そのへんの事情はよく分かっていませんが、流石に、東京帝国大学の法科には入れなかったのではないかと察せられます。
大学卒業後は、政治を志し、貴族院で活躍しました。
1931(昭和6)年には、貴族院副議長、2年後には議長に就任しています。
現在、僕の話が到達した1937(昭和12)年の時点では、数え年47歳。そう若いというわけではありませんが、老人たちばかりの当時の政界の中では、颯爽とした雰囲気があり、おまけに、かなりのハンサムだったので、日本の行き詰まりを打開してくれそうな、頼もしい政治家に見えたのです。
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そこで、近衛文麿は、皇室のことを親類だと思っており、天皇の前でもあまり恐れ入ることがありませんでした。
文麿は昭和天皇より10歳上。本人は兄貴のつもりだったのかも知れません。
宮中に伺うことを「参内」(さんだい)、天皇に会うことを「拝謁」、天皇にご報告申し上げることを「奏上」または「上奏」と言います。軍人の場合は「上奏」に統一されていたようです。
僕はかつて、新聞記事で、「天皇陛下の自衛隊幹部に対する拝謁」という字句を読んで仰天したことがあります。
「拝んで謁する」のですから、主語は天皇ではなく、臣下です。「自衛隊幹部の天皇陛下に対する拝謁」でなければならないのです。
いや、「天皇陛下に対する」という言い方自体がずいぶん敬意を欠いています。それを言いたいのなら、「(天皇陛下が自衛隊幹部に)謁を賜る」などという言い方があります。
また、同じように天皇が主語になるときは「引見」(いんけん)とも言います。「天皇が自衛隊幹部を引見する」のです。
さて、天皇は臣下を引見するとき、長時間に渡る場合は、「椅子を賜る」ことがあります。一般には、立って上奏するのです。
椅子を賜った場合は、遠慮しないで座ったようです。
ところが近衛は、椅子が置いてあると、天皇の御諚(ごじょう)がなくても座ってしまい、なんと、脚を組んで上奏したということです。
そして、近衛が帰った後、侍従が片づけようとして椅子に触ると、背中の部分が温かくなっていたとのこと。
他の人は、椅子を賜っても、前かがみになって、畏まっているのですが、近衛は背に凭れていたのです。まあ、脚を組むのですから、当然凭れかかることになるでしょうが。
ところで、上の「他の人は、椅子を賜っても」という所を見て、文法的に間違っているじゃないか、と思った人もいるでしょう。「賜る」の主語は天皇でなきゃいけないはずだ、と思うでしょう。
そうじゃないんですよ。
「天皇は近衛に椅子を賜った」とも言いますし、「近衛は(天皇から)椅子を賜った」とも言います。
「賜る」は両ベクトルのある動詞で、主君も臣下も主語になれるのです。
近衛文麿は面白い人なので、次回もこの人の話を続けましょう。
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1936(昭和11)年2月29日に二・二六事件が収拾されると、最後の元老・西園寺公望(さいおんじきんもち)は、近衛文麿を次期首相に選び、本人を宮内省に招いて打診しました。
しかし、近衛は、健康と自信に欠ける所があるという理由で辞退しました。
それでも、西園寺は、天皇に近衛を推薦しました。天皇から命ぜられたら、いやとは言えまいと判断したのです。
3月4日、近衛に組閣の大命が降下しました。
なんということでしょう。近衛は大命を拝辞してしまったのです。
「拝辞」って「拝んで辞退」することですよ。
今日は、この近衛文麿という人を研究してみましょう。
鎌倉時代になろうという頃、藤原家の嫡流では、兄弟の相克があって、後継者問題で揺れていました。
源頼朝がこれに干渉し、自分に近い弟の方を無理矢理に関白にしてしまい、兄に「近衛家」、弟に「九条家」を立てさせました。
さらに、鎌倉時代の中頃になって、近衛から鷹司(たかつかさ)が、九条から二条と一条が分かれました。
この藤原本流を「摂家」「五摂家」「摂関家」などと呼びます。
藤原という姓を捨てたわけではなく、「本姓は藤原だが、仮に近衛と名乗る」というニュアンスだったのです。
摂政・関白になるには、この五摂家の出身でなければなりませんでした。
五摂家に次ぐ家柄を「清華家」(せいかけ)と呼び、西園寺家はこれに属します。清華家の出身者は、最高で太政大臣(だいじょうだいじん)にまでなることができました。
ところが、近衛家にはもう一つ重大な秘密があるのです。
戦国から江戸に移る頃、近衛家では、男子が生まれず、妹の子を養子に迎えたことがありました。
この妹の夫、つまり、養子の実父が後陽成(ごようぜい)天皇だったのです。
藤原氏の個人名に興味のある人のために付け加えて置きますと、近衛前久(さきひさ)の子供に、信尹(のぶただ)と前子(さきこ)がいました。
前子が後陽成天皇に入内(じゅだい)して、中宮となり、生まれたのが、後水尾天皇と二宮(にのみや/二番目の皇子という意味で、幼時の名は分かっていません)でした。
この二宮が、信尹の養子となって、信尋(のぶひろ)と名乗りました。
前子は後に中和門院(ちゅうかもんいん)と呼ばれるようになりますから、おぼえておくとよいでしょう。
その後は、近衛家は養子を入れず、ずっと男系でつながっていました。(実は、戦後になってから養子を取ってしまったのですが、それについてはいずれ別の所で)
ということは、近衛文麿は血統的には天皇の直系の男系子孫であり、潜在的には天皇になってもおかしくない存在なのです。
他の摂家にも同じ事情の所がありますが、こういう、男系で皇室につながる摂家を「皇別摂家」と呼ぶことがあります。
もう一つのポイントは、五摂家の中でも序列があるということです。
分かれた経緯から考えても分かるでしょうが、そのトップは近衛家でした。
近衛家を「五摂家筆頭」ということがあります。
明日もこの続きをやりましょう。
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大日本帝国の官制では、「内務大臣」「宮内大臣」「内大臣」と紛らわしい名前が並んでいます。「宮内大臣」と「内大臣」なんぞは、両方あったのかとびっくりする人も多いと思います。
略称は、順に「内相」「宮内相」「内府」です。
まず「内務大臣」というのは、皇室とは直接関係のない、ふつうの閣僚で、今の自治省の前身です。大蔵省、商工省(今の経済産業省)と並んで、高等文官試験(今の公務員試験・種)に合格した人の中でも、一番成績のよい者が行く所だと言われていました。
内務大臣は名前がややこしいだけで、実態は他の2つとは全然関連がありません。
一方、「宮内大臣」と「内大臣」は実は、内閣の構成員たる閣僚ではありません。
宮内省というのは「省」という名前がついていても、他の省と同列なのではなく、内閣から独立した宮中に属する存在でした。
「府中」「宮中」という言い方をおぼえておくといいでしょう。
大日本帝国は皇室と国家とが一心同体の存在ですから、皇室と政府との境目が曖昧になっています。でも、それでは、近代国家とは言えませんから、できるだけ区別しようということで、政府に属するものは「府中」、皇室に属するものは「宮中」と呼んで区別したのです。
宮内大臣も内大臣も、「府中」ではなく、「宮中」に属するのですから、国務大臣ではありません。
ただ、待遇は国務大臣並みでした。
話は違いますが、戦前の基準から言えば、現在、日本の、皇族を除いた臣下の中で、一番偉い人は誰でしょう。
それは、中曾根康弘元首相です。
なぜって、宮中席次が一番だからです。
これは、宮中で晩餐会などが行われる時の、席の上下の定めなのですが、はっきりした決まりがあって、トップは「大勲位」の勲章を持つ者(中曾根氏はこれを持っているのです)、第二は内閣総理大臣、第三は枢密院議長と決まっていたのです。
以前のブログで、平沼騏一郎が枢密院副議長から議長へ昇格できなかった恨みで倒閣運動に走ったという話をしましたが、枢密院副議長の宮中席次は第九であり、議長とは雲泥の差がありますから、その恨みもうべなるかなと思われるのです。
ところで、上で、「現在、日本の、皇族を除いた臣下の中で」と書いたのは、わざとしたことです。
「現在の日本には臣下なんかいないんだ」と文句を言う人がいるのです。
やめてくださいね。そういうさもしい言い方は。
戦争に負けさえしなければ、我々は光輝ある大日本帝国の臣民だったんですよ。それが、「日本国民」なんて、情けない名前に変えられてしまった悔しさを忘れてはいけません。今でも、現人神(あらひとがみ)の臣下なのだと思おうではありませんか。
さて、宮内大臣も内大臣も、元帥や国務大臣と並んで、宮中席次第五となっています。
ついでに、その上の宮中席次第四は、ちょっと正確な言い方ではないのですが、明治の元勲たちの中の特に優遇されていた連中でした。(これで第一から第五までが理解できたはずです)
宮内大臣は「宮内省」のトップです。「省」という名前があるのに、内閣には属していなかったのですから、ややこしい話です。
しかし、「省」という名前から察せられるように、宮中が、政府の他の機関と関係を持つときに、これを代表する立場だったと言えば分かりやすいでしょう。まあ、今の宮内庁をずっと大きくして、権威を持たせたような存在でした。
宮内大臣がオモテの存在なら、内大臣はウラ。
内大臣が司る機関は「内大臣府」と言い、これは、天皇の秘書の役割を果たす機関です。
「府」という名がついているのですが、「府中」ではなく「宮中」なんですからね。
戦後、内大臣が廃止された後は、侍従長が秘書長の役割も兼ねることになりましたが、戦前は、天皇の公の仕事の補助をするのが内大臣、プライベートな活動の補助をするのが侍従長でした。
これが、宮内大臣と内大臣の違いです。
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