日本が大陸に進出して行くにつれて、米英との軋轢が高まり、その分、日本は米英と敵対するナチス・ドイツに接近して行きます。
また、日本にとってはソ連の脅威が切実に感じられていただけに、ドイツに近づけば、ソ連を牽制するのに役立つと思われたからでした。
日独連携の経過を説明してみましょう。
そもそも、声を掛けて来たのは、ドイツの方からでした。
ナチスの外交部長(外相)リッベントロップが、ソ連を仮想敵国とする防衛同盟を提案したのです。それも、日本の外務省に対してでなく、駐独大使館の武官である陸軍少将にプライベートな会談で話しかけたのですから、ドイツでも日本を牛耳っているのは、陸軍だということを理解していたのでしょう。
これは1935(昭和10)年10月のことで、このときの首相はまだ岡田啓介でした。
1936(昭和11)年、二・二六事件の後、岡田内閣が辞職して、広田内閣ができた後、参謀本部は、ほぼ筋書きのできたこの話を外務省に任せたのです。
広田弘毅内閣の外相は、最初の一ヶ月は広田首相の兼任でしたが、4月になって、前駐支大使・有田八郎に代わっていました。「支」は「支那」のことですよ。
有田外相と駐独大使・武者小路公共(むしゃのこうじきみとも)が積極的にこの話を進めました。
最初は軍部が推進した協定ですが、外務省もこれに乗ってしまいました。
外務省の役人たちが保身を図るばかりで、国益や国民のことを考えていないことは、北朝鮮の拉致事件で明らかになりましたが、この時代から、あんまり碌な外交官はいなかったのです。
11月(1936)に日独防共協定が成立しました。
二・二六事件、広田内閣、日独防共協定という動きが、盧溝橋事件の前の年であることは覚えておいた方がよいでしょう。
この協定の文言は、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の破壊活動を防ぐための情報交換が主であり、直接の軍事同盟ではありませんでしたが、いざ日ソ間に戦争が始まった場合には、ドイツが参戦する余地が大きく残されていました。
これが、ソ連のみならず、米英をも刺激することになり、いよいよ世界は二つのブロックに分割されることになって行きました。
一年後の1937(昭和12)年12月には、イタリアが参加して、日独伊防共協定に発展しました。
さらに3年後の1940(昭和15)年、この協定は「日独伊三国同盟」に昇格し、米英との戦争に突き進むことになったのです。

